代表プロフィール

初めまして。湘南ビジネスコーチ(株)
代表取締役で経営コンサルタントの山本です。


 

すいません、頭良さそうに振る舞って格好つけていました。
本来の私の姿はこちらです。


 

経営コンサルタントというイメージが必要だと独立当初に思ってスーツなど着て写真撮影していましたが、自分を飾らずに湘南で大好きなサーフィンをする「波乗り経営コンサル」としてずっとコンサル畑を歩んでいます。


 

私は祖父が元政治家・父親は有名国立大学(北海道大学)を卒業して大企業の重役をしていたエリートサラリーマンの家庭に生まれ育ちました。

ちなみに父親の妹は東京大学卒業です(もう笑うしかない学歴)。

幼少期からエリートサラリーマンになる事が人生の唯一の道だという環境でその教育を受けて行きます。

当時は珍しい私立中学受験も行い、中高一貫の学校に合格して勉強の日々を送りましたが高校に入りその教育に疑問を持ち始め大学への進学が当たり前だった中で「大学には行かない」と初めて反発をしました。

何をしたいのか分からず、柴田恭兵の劇団に入って俳優になるとかプロボクサーになるとか言っていました(笑)。

湘南との出合い

家族会議が行われ、最終的には親の説得にあい入れそうな適当な大学に行くことになり、同時期に父親の転勤で神奈川県逗子市という政治家だった祖父の暮らす家が実家となりました。

以降逗子市が私の実家となり湘南エリアで初めて暮らす経験となりました。

そこから初めて友人の誘いで湘南藤沢にある鵠沼海岸に行きサーフィンとも出合いました。

初めてのサーフィンではショートボードにトライしたましたが撃沈。

サーフィンの難しさに触れて一時的に挫折するも再度少し長めのボード(ミッドレングス)で挑戦して何とか前に進める程度に乗れるようになりました。

そこから波に乗る浮力感に魅了され友人達と近くの逗子海岸、由比ヶ浜海岸、材木座海岸、鵠沼海岸や隣の片瀬海岸や辻堂海岸に通うようになります。

何度か通ううちにアウディのステーションワゴンに乗りサーフィンに来ていた当時40代後半から50代前半ぐらいのおじさんサーファーと出会い声を掛け合ったのを機に仲良くなり、その人のようにおじさんになっても平日にサーフィンに来れるような生活を目指したいと初めて心に願いました。

湘南の雰囲気、サーフィンとの出合いを経て私は湘南に魅了されていきました。

しかし・・・

湘南との別れ

大学の中では就職活動が盛んに騒がれるようになります。

皆、リクルートスーツを着て動いているのが何か気持ち悪い感じがしていた中、ロストジェネレーション世代という事もあり就職氷河期という環境で友人達は皆、就職活動に苦戦をしていました。

そんな中で私は親に「就職はしない」と告げます。

「大学には行かない」と告げた時以来の衝撃を親は受けて父親のコネが使われ東証一部上場しているようなある大手商社に就職が決まりました。

入社後に東京虎ノ門という場所へ毎朝通勤をする事になり、川崎へ一人暮らしをするため私だけ引っ越しました。

そこで満員電車を経験し、上司は父親の会社しか見ておらず同期が同じミスをしても私は怒られずヨイショされ、仕事終わりに飲みに行っても会社の愚痴を上司から聞くような仕事が辛く「恵まれた環境」が自分をどんどん追い込んでいきました。

新卒だった事もあり、父親のコネ入社という居心地の悪さもあり、人生で一番嫌な経験だと今でも感じる満員電車の生活という事もあり、余裕が無く海から足が遠のいてサーフィンも湘南へも自然と行かなくなってしまいます。

恐怖の肉体労働

そんな初めての就職生活を3年ほど経て、いよいよその環境が耐えられず退職を決意しました。親からは勘当状態となり川崎で借りていたマンションを引き払い、東京品川の立会川という駅の近くに風呂無し4畳半の部屋を借りました。


※当時住んでいた実際のアパート(真ん中の白壁が黒いすすで汚れている建物)

天井ではネズミが運動会をしています。夜にその音が嫌で(寝ている時に布団に入ってくるのではないかと考え)たまりませんでした。

このネズミアパートから1日でも早く出たいと。

その頃にアメリカで大活躍していた野茂英雄(元プロ野球選手)に影響を受けてアメリカに行きたいという単純な理由から、お金を貯めるべく当時は恐怖の肉体労働と呼ばれていた佐川急便へ入社することを決めました。

佐川急便の入社当日、地下鉄の駅を上がり地上に出ると東京本社までの道をアリが列をなすようにうなだれた人達が力なく歩いていました。

その光景にゾッとした私は道を外れ、自動販売機で缶コーヒーを買い団地街の公園に入りベンチに座っていました。

「今ならまだ引き返せる」 「何も佐川じゃ無くても・・・」

そこから数分の記憶がなく、気付いたらアリの群れに加わり本社へと続く道を歩いていました。

そこからバスに乗り込み研修所に向かいます。

車内では社歌が大音量で流れ、歌詞を渡された我々は知るはずも無い歌を大声でいきなり歌うよう指示を出されます。

皆、戸惑いながら聞きよう聞き真似で歌いながらしばらくして周りを見渡すと見たような光景が目に飛び込んできました。

「江ノ島」でした。


 

サーフィンをしに通っていた鵠沼海岸や片瀬海岸、いつも見ていた江ノ島です。

行き先も知りませんでしたが、最終的には江ノ島の中にある研修所で佐川の新人研修がスタートしました。

親の敷いたレールの上を歩いて来た人生から第2の人生がスタートしたと言っても過言では無い江ノ島研修のスタートでした。

江ノ島に着くと直ぐに声出し訓練が行われます。食事も風呂もスピーディに終わらせ、夜もずっと研修が続きます。夜中に逃げ出す人も出ていました。

早朝には片瀬海岸東浜で社歌や挨拶訓練を大声で行います。声が出ていなかった私は教官から頭を砂浜に押し付けられ「声を出せー」と怒鳴られていました。

怒号を浴びている中でサーファーが朝からサーフィンをしているのを押し付けられた顔を砂浜につけながら見ていました。

その瞬間に学生時代にサーフィンしていた事が走馬灯のようによぎり、

あの時平日に出会ったおじさんサーファーのようになりたかった過去の自分と大声研修している今の自分を垣間見て涙が溢れてきました。

「俺は何をやっているんだろう・・・」と。

やっとの思いで研修が終わり、品川に近い城南店というお店に配属になりました。そこからリアル佐川がスタートです。

朝6時過ぎには会社に到着し夜11時頃に仕事が終わり、会社にあるシャワー室でシャワーを浴びて帰宅。12月の繁忙期に入ると仕事が夜中の2時頃までかかる事もザラにありました。

毎日、退職しようとその理由を探しながら・・・

しかしそんなことを考える余裕が無いぐらい慌ただしく過ぎる毎日。


※実際に佐川で働いていた当時の私です。

※現在は取り壊された当時通っていた銭湯 看板の出の字が取れていますが「日の出湯」です。

大分後になって近くまで来て写真を撮ったこの時偶然にも佐川トラックが通過しました(笑)。

週に1回の休みの日は洗濯物を持って銭湯に行き、食事とそれ以外はずっと寝ている生活でした。

もうサーフィンの「サ」の字も湘南の「シ」の時も頭に浮かばないほど余裕がありませんでした。

そんな激しい肉体労働の中、弁護士事務所で秘書をしていたある女性と出会い付き合うことになります。

彼女のおかげで厳しい肉体労働も乗り切れたと言っても過言ではありませんが、まともなデートはほとんど記憶に無いぐらい、いつも私が寝ているだけというデートでした(笑)。

そして本当に色々ありましたが、奇跡的に3年半ほど勤めて目標としていた1,000万円(正確には1,241万)の貯金額を達成して本当に海外留学を果たすことになります。

そして念願のネズミアパートからの脱出でした(笑)。

留学の挫折生活

佐川で目標の貯金額を達成した時に海外へ行く当初の目標が少し揺らぎました。
付き合っている彼女がいた事もありますが、慣れ親しんだ日本から離れることにビビっていました。

しかし決断が揺るぐのが怖かった事もあり佐川を退職して1ヶ月後に私は成田空港にいました。

親や友達、彼女など見送りに来てくれた中、私は恥ずかしながら号泣して出発ゲートに入り味わったことのない恐怖を感じていました。

帰りの航空券も持たずにいつ帰れるのか分からないからです。
勢いで日本を飛び出そうとしている先の見えない不安からです。

ゲートに入り入国審査票?のようなものを書いていた時です。

まだ当時は存命だったK1選手のアンディフグがとなりにいました。

私はとっさにアンディフグだと分かりましたが号泣していて何も声をかけることなく彼を見ていた時に目が合いとても優しい微笑みをもらいました。

その一瞬の彼の笑顔で救われたのを今でも覚えています。


 

そしてまずは生活費が安いカナダへ語学留学して英語を身につけようとしましたが、英語が全くできない状態だった認識の甘さでどん底に突き落とされます。

カナダに到着して初日でもう日本に帰りたい感情が高まり、ホテルで落ち着かず歩き回りワナワナしていました。

言葉が分からずホテルの部屋にこもり食事はホテル内にある自販機で済ます毎日です。

1週間ぐらい経過した時にボーッとテレビを見ていたら年末年始の世界の様子を映していた中で東京タワーが映りました。思わずテレビを抱きしめ「帰りてー」と涙ながらに叫んでいました(笑)。

半年経っても一向に英語が分からず、人生捨てた方が楽だと感じた事もあります。

歩道で大の字になって大泣きしてちょっとした騒ぎも起こしました(笑)。

そこから何とか這い上がり、やっとの思いで英語に自信が出るようになってからMBA留学を知りアメリカの大学院へ渡る道が見えて来ました。

早速受験をし無事に合格できた時は雄叫びをあげていました。
しかしそれがほんの一瞬だけの留学時代の光でした。

アメリカへ渡り、大学院へ入るととてもついていけるレベルではない事が直ぐに分かりました。

胃が口から丸ごと出てくるのではないかと思うぐらい予習・復習を行いましたがついていけません。

周りの学生はバンクオブアメリカ(銀行)やメリルリンチ証券(証券会社)などから派遣で来ていた現役バリバリの金融マンが多くいました。

自己紹介で私は前職を尋ねられ「トラックドライバー」だったことを告げると皆、目を丸くして「ジョークを言っている」という反応で、それが事実だったと知ると離れていきました。

MBA留学では人脈を作る事も1つの目的です。こんな使えないアジア人などは相手にしていても時間の無駄だという事が態度でヒシヒシと感じました。

クラスではケーススタディと呼ばれる授業で企業の事例に対してYesとNoの意見に分かれそれぞれの意見を発表して多数決を取る授業がありました。

私は毎回そこでクラスの誰1人にも賛同を得られた事がありません。

MBAを取得した後に管理職になった場合に備えてリストラゲームのような事も行いました。

チームに分けられプロジェクトが組まれます。選ばれたチームリーダーがチームのプロジェクトの貢献度合いに応じてダメな場合はリストラをどんどん行っていくという非情なゲームです。

リストラの対象になったのはいつも最初に私でした。
もの凄く準備をしていたのにもかかわらずです。


※実際に受け取った手紙

何か格好良く、体裁良く書かれていますが、手っ取り早く言えば・・・・

「あなた必要ないからクラスから出て行って」という事です。
このゲームの為に相当な時間をかけ調べあげめちゃくちゃ苦労していました。
それが速攻でリストラです。

この手紙をもらい、私は当時それを見た瞬間には照れ笑いで誤魔化しましたが、家に帰り再度この手紙を読みながら、悔しくて悔しくて、思いっきり涙がこみあげてきました。

「自分なんかにMBAなんて取れるわけが無い・・・」
「MBAなんて高嶺の花なんだ・・・」
「アニャバン(優秀なインド人の同期生)がドロップアウトするぐらいだし・・・」
「ネイティブの人達でも容赦なくドロップアウトされていたし・・・」
「このまま退学して帰国するのはまずいからコンピューターの資格なんか取ってからにしたらどうだ・・・」

とても自分にはMBAなんぞ継続できないと自問自答の言い訳が始まりました。

そしてやる気を失い、帰国してからどうするか?という事ばかり考えながら授業を受けていた時に私の運命を変えるぐらいの2つのインパクトを受ける事になります。

1つ目は911、アメリカ同時多発テロです。

その日も普通に学校に出席をして授業を受けていた時です。

何やら慌ただしい教授達の動きと同時に教室で使われていたプロジェクター用のスクリーンにワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んだ後の映像が流れました。

クラス中のアメリカ人が悲鳴をあげ、その後ビルが崩壊するシーンでは涙を流している人達がいました。

これからアメリカはどうなってしまうのだろう?ともの凄く不安になり、自分の置かれている状況、日本の良さを改めて認識させられました。

この事件を機に日本へ帰国したいという欲望が更に増しました。
しかしアメリカ同時多発テロの後に行ったあるプロジェクトがありました。

ヒューマンリソース(人的資源)やアントレプレナーシップアンドストラテジー(起業家精神と戦略)というMBAの授業を担当している女性教授がいました。

この方は貧しい地域などの支援も積極的に行っている人格者でした。


※ビバリー教授

彼女はスラム街(黒人居住地域)を発展させたいという気持ちで常に「スラム街に必要なのは食事券でもお金でもなく教育です」「教育だけが唯一彼らを救える道です」と授業中に訴えていました。

私は既に授業についていけない不安が本音なのに、アメリカ同時多発テロを逃げる理由に退学して帰国する事、MBAの道はあきらめる事を考えていましたので、「この人何格好つけてんだろう?」「スラム街に教育?はっ?」という冷めた態度です。

それから課題とボランティアを兼ねて、スラム街の起業家または起業志望者へ我々が学んでいる事を教えて仕事面から支援して町を活性化するプロジェクトが起こります。

煮え切らないまま実際にプロジェクトの為にスラム街にチーム数名と一緒に行くことになりました。

スラム街に行った事がある人なら雰囲気を感じ取れると思いますが、何か言葉では言い表しにくい嫌な雰囲気です。

すると私はそこに兄弟らしき少年が2人でゴミ箱をあさっている光景を目にしました。

私は彼らに近づいて「何故ゴミ箱をあさっているの?」と質問すると、お兄ちゃんらしき方が「食べ物を探しているから」と答えました。

「食べ物を探している?」一瞬自分の耳を疑いました。

私はこの世界経済第一位の経済大国アメリカで子供がゴミ箱をあさって、食べ物を見つけているという状況にとても驚きました。

私は続けて・・・

「お父さんやお母さんは?」と聞くと・・・お兄ちゃんらしき方が「お父さんは3年前に殺されて、お母さんはその後いなくなった」と悲しげな様子も見せずに、大きなクリクリした目を輝かせて質問に答えていました。

今でもその大きな瞳を忘れる事がありません。
そしてその大きな瞳は私の中で何かを変えました。

色々調べると、教授が話していた通り、そのスラム街ではアメリカ政府からフードスタンプと呼ばれる食料券が配給されるシステムが取られておりました。

しかしそれを強い大人が取り上げて、麻薬などのドラッグと交換してしまい、そしてスラム街にはドラッグが蔓延していくという悪循環が起きているという事が分かりました。

プロジェクトの発起人である教授が「貧しい地域を本質的に改善する為には教育が必要です」と話されていた事がこの時にやっと理解できました。

いくら金品を与えても、どうしても限界があります。
スラム街の黒人の方々だけではありません。

とても清潔とは言えない環境で身を寄せ合って暮らしている移民の中国人・メキシコ人の方々などにも会って、その現状を目の当たりにしました。

その時に「自分はなんて恵まれた環境でうじうじ悩んでいるんだ」と自分が恥ずかしくなりました。

そして

「プロジェクトを成功させたい」
「担当の41歳黒人起業家志望のJayさんを成功させたい」
「MBAを何が何でも卒業してみせる」
「スラム街より悲惨な恵まれない地域へ出来る範囲の金額で寄付をする」
「エリートの歩む人生に絶対負けない」

この時私は初めて、自分以外の他人の成功や支援を思いました。

早速、翌月からあるNPO団体を通して小額ですが寄付を始めました。
この取り組みは今でも金額を増やして継続しています。

またなぜか目標ではなく「エリートの歩む人生に絶対負けない」ということまで考えていました。

きっと心の奥にその気持ちが煮えたぎっていたのでしょう。幼少期にエリートサラリーマンという道が唯一の道だと教育を受け、それに反発しその人達に大学院でバカにされまくるという経験からです。

そしてプロジェクトがスタートしていきました。

41歳の黒人Jayさんという将来的にはお店を持ちたいという方へアドバイスをするようになりました。

この方が私の人生初めてのクライアントです。もちろん無料で行いますが、私は徹底的に様々な事を吸収してお伝えしました。

時にはMBAの教科書以外に日本から書籍を取り寄せ必要な事まで学んでいたぐらいです。

こんな私の言葉にも真剣に耳を傾け、今の現状から脱皮したいという強い思いを私は感じました。

その強い思いは私もネズミアパートを出たいと過去に感じていたものに凄く似ていましたが、この方に比べれば全然恵まれていたなとつくづく感じた次第です。

それから更に水を得た魚のようにそのプロジェクトに邁進して他のチームメンバーにも協力をしてもらい、無事に4ヵ月後には小さな雑貨店を出せるまでになりました。

売上規模は月商約7000ドル(当時は約82万円)で手元には約2800ドル(当時は約33万円)ぐらい残るという小さな規模でしたが、その黒人起業家はとても喜んでくれ、起業家として邁進していました。

メリルリンチ証券やバンクオブアメリカなどの大手企業から会社のお金でMBAに通う仲間達はあまり乗る気は無い様子です。

彼らはやはり授業で行う超一流企業のケーススタディーに邁進していました。

私は黒人起業家の方を成功させたい一身で、役に立ちたいという想いからMBAカリキュラムにも今までとは違う姿勢で取り組めるようになっていました。

大企業のケーススタディーをしていても、あのGEだってデルコンピューターだって元は小さな雑貨店のような会社からスタートしていて、成功する原理原則は同じであるとその黒人起業家から逆に学びました。

そしてとうとうMBAの卒業が見え始め、無事に「MBAを取得」するという夢の扉を開けました。

こちらが実際に取得したMBAの卒業証書です。


 

今でも人生の1番のどん底はいつだと聞かれれば、間違いなく留学時代と答えます。佐川急便時代の何倍も苦しかったというのが正直な感想です。

約4年の留学生活を経て私は帰国しました。

更に大手の独立系コンサルティング会社から内定をいただく事もできました。帰国の準備をしながら机を整理していると一枚のボロボロの紙が出てきました。

MBAに入学して3ヶ月ぐらいが経った時にリストラの引導を渡されたあの手紙です。

私はあの夜泣きながら、グチャグチャに丸めてゴミ箱へ投げましたが、少し落ち着いてゴミ箱から取り出ししわを伸ばしてしばらくボォッーと手紙を眺めながら何も考えずになぜか机の中にしまっていました。

卒業した後その手紙を見て未熟だったあの頃、MBAを何度も諦めようとしていたあの頃を思い出して、またしても涙が溢れてきました。

そしてこの気持ちを絶対に忘れないように生きていこうと、実は今でも財布の中に入れて持ち歩いています。

そして帰国後にMBAスキルを活かすべく内定をいただいていたコンサルティングファームへ就職をして順調に仕事をこなしていきますが、神様はまた私に試練を与えます。

知的労働の限界

帰国後、大手の独立系コンサルティングファームに就職して水を得た魚のように働きました。

そして就職してから直ぐに待たせていた佐川急便時代に出会った彼女と結婚もします。

しかし就職したばかりのため新婚旅行にも行けず、仕事に邁進していました。
最初は東京勤務でしたが、いきなり会社の辞令で福岡への転勤を命じられました。

この時は妻も私も驚いていたのが正直なところですが、まずは単身福岡へ立ちました。

それからしばらくして妻を福岡に呼びました。

まだアメリカから帰国して間もない中で就職、結婚、転勤と非常に慌ただしく動いていましたが、福岡でやっと落ち着いた環境が整いました。

そこから猛烈に働き始めました。

猛烈に働いているのがもう嬉しくてどうしようもありませんでした。
コンサルタント会社の労働条件も佐川急便並みに結構厳しいものはあります。

朝早くから帰宅は夜中になる事などしょっちゅうです。
プロジェクトが始まると寝袋を持参して会社に寝泊りする事もありました。

夜中の1時頃帰宅してシャワーを浴びて直ぐに福岡から宮崎まで車で走り、車の中で仮眠を取って朝7時から宮崎のクライアントで経営指導があったりします。

たまに夜9時頃帰宅すると妻に「忘れ物?」と言われるような状態です。
しかし全く苦にはなりませんでした。

ある日曜日には福岡西方沖地震というとても強い地震(確か震度6強ぐらいあったと思います)がありました。

その時も私はお客様とアポイントがあったので、福岡から久留米まで営業へ向かい相手の社長がびっくりしていました。

そのおかげで高額なコンサルタント契約もいただけましたが・・・

正月も元旦から営業している小売業のクライアントさんもおりましたので指導しながら一緒にチラシのポスティングをしている始末です。

家にいても食事と睡眠以外はほとんど仕事です。

365日の内、全く仕事をしない日はありませんでした。とにかく仕事一本です。

コンサル業が好きとか嫌いというレベルではありません。
何かに取り付かれていたかのようでした。

むしろコンサルタント会社で働いているよりも、今までの佐川・留学時代の方が厳しかったと感じていたぐらいです。

更に年中無休で働ける事の喜びすら感じていました。
働き方改革の時代に真逆の喜びです(笑)。

それから地位・名誉・収入が上がり、過去の私には想像もつかないような環境になっていました。

異例とも言える出世を果たしていき、上席執行役員となり部下も増えて行くと仕事量が更に増して行きます。

クライアントだけでなくコンサルタント会社自体も経営という立場から見ていかなくてはならなくなり、忙しさは尋常ではありませんでした。

それでも私は何の不満もなくむしろ当時の社長にはとても感謝していました(今でも感謝していますが)。

ただし1つだけネックだった事が後々分かる時間という資産の有効活用です。

ここが私の場合は完全に麻痺していました。

1日の時間は大抵仕事でしたのでマネジメントはしやすいのですが、その使い方が問題でした。

それまで続けていた自己投資が中々できないレベルまで忙しくなります。

率先垂範を目指していた私は自らも経営コンサルタントとしてプレイヤーとして活動せざるを得ませんでした。

また忙しい部下が遅くまで仕事をしている中で私は絶対に先に帰らず彼らの相談や会社の事をまずは優先して、最後に彼らが帰宅した夜11時過ぎ頃から自分のクライアントに対する仕事をして帰るような生活になって来ました。

忙しいのは私の働き方に最大限の問題はあるのですが、コンサルによくいる口先だけで部下に過労を命じて自分はクリエイティブな仕事が大切だとか言ってさっさと帰るような上司にだけはなりたくありませんでした。

そんな中でもこの会社で更に上を目指していこうと考えていたある時・・・

相変わらず上席執行役員として、日々とても忙しい生活をしていたある日の事です。

前々から実は妻が体調不良を訴えていました。

妻はあまり体が強い方ではないので心配していましたが、仕事の関係でなかなかフォローはしてあげられません。

そうこうしている中で今度は自分がアトピー性皮膚炎にかかっていることが分かりました。

更に糖尿病予備軍という診断も受けるダブルパンチです。

※この腹です(笑)

医者はストレスが原因だと話していましたが、当時は自分がストレスを抱えていることなど微塵も感じていなかったので不思議でしたが、医者曰く、

「心に出ていない悲鳴が体に出ているんですよ。」と。

妻の体調は悪く、自分も体調は悪くないのに皮膚などに炎症が出ている・・・

それから冷静になってから様々な事を考えました。

妻は私が佐川急便で働き4畳半1間のネズミアパートの生活をしていたどん底の頃からの付き合いです。

留学という遠距離恋愛を経て、出会いからやっとの思いで7年越しに結婚をした人です。

また私が留学を決意してカナダとアメリカへ旅立ってからMBAを取得するまで何度も挫折しそうな私をいつも日本から応援してくれていました。

やっと帰国してから経営コンサルタントになり、直ぐに結婚しましたが、遠距離恋愛とあまり変わらず私はほとんど家にはいない生活で妻との時間もほとんど取れない状況の中、何1つ文句も言わずについてきてくれました。

自分の体を整えるための運動時間や家族フォロー時間、時間をマネジメントできる生活の必要性を感じていました。

そして時間をコントロールするために今までの地位・名誉・収入を全て捨てて、コンサルティング会社を退職する決断をしました。

経営コンサルタントとして1日18時間平均で仕事に拘束されている状態ではどうしても家族フォローする事は厳しい状況でした。

退職するというその決断をするにはとても勇気がいり、怖かったです。

やっとの思いで貯めたお金で取得したMBA。
その苦労が無くなるような恐怖・・・
やっと気付きあげた地位・名誉・収入の生活を失う恐怖・・・

そして決断したのはいいですが、現実には収入がありませんのでお金が必要です。

この時当時の社長から特別な待遇を提案されたり、何人かの方々から経営コンサルタントとして弊社に転職しないか?というありがたい声もかけられました。

しかしその道を選べばお金は入りますが、コンサルタント会社という組織に属すると恐らくまた時間が取れません。

同じ結果になる事は目に見えていました。
妻のフォローをしたり、自分の体を整えたりとなると、仕事に対する時間の使い方は昔のようなやり方はできない・・・

その為には・・・

そして私の脳裏に時間を自らコントロールできる「起業」という言葉がよぎりました。

サーフィンの復活と湘南へ帰還

私は経営コンサルタント会社を退職して2ヵ月後に起業という新たなステージに入りました。

そして起業してから夢の扉が次々と開かれていきます。
自分の体をマネジメントする為にサーフィンも復活させました。

中でも留学という切り口でビジネスモデルを組んで運よく初年度から年商1億2千万円を超える結果を出せました。

起業家や経営者へ評論家のようなアドバイスではなく、実践者としてアドバイスをしたかったので、経営コンサルタント以外の業種へも挑戦したのです。

しかも妻へのフォローはしながら、自分の体をマネジメントするために再開したサーフィンのある生活も進めながらです。

2011年3月に起きた東日本大震災を目の当たりにして、後悔しないようにこれから起業しようとする人たち(起業ライフの自由は最高だという事を伝えたい)の支援を行うと経済産業省後援事業のドリームゲートの試験を受け、合格してアドバイスもスタートしました。

そこでも色々な賞をいただきました。

そしてサーフィンは大学を卒業して以来です。既に13年が経過していました。

本当にサーフィンを復活させるまでに紆余曲折ありました。あの日、平日に来ていたおじさんサーファーのようにサーフィンのある生活を目指したいと誓ったあの時から13年です。

江ノ島で悔しい思いでサーファーを見ていた佐川研修の日から10年です。

サーフィンのある生活を取り戻したおかげでアトピー性皮膚炎も良くなり、ダイエット効果も手伝って糖尿病予備軍からも脱却していました。

そして我が家には小さな命が誕生しました。

それから娘が小学校に上がるタイミングで福岡から妻も私も育った関東に戻る事を決断します。

私は福岡でサーフィンのある生活はしていましたが、自宅から徒歩10分ぐらいで行ける百道浜という海は近くにあっても波のある海ではなく、

波のある海まで通っている日々が続いていたため、湘南エリアに引っ越す提案をしました。

その為の行動目標も様々書いていましたが、妻や妻の家族から津波が怖いという理由で断念することになります。

結局、横浜のみなとみらいというエリアに引っ越す事となりまた海の近くではありましたが、波のない海と波のある海がある湘南に通う日々が続きます。

そして娘が小学校を卒業するタイミングで湘南移住の再チャンスが舞い込んで来て、今度はリモートワークを実施しながら事務所も兼務した中で実現しました(藤沢市片瀬海岸3丁目)。

サーフィンも大好きですがサーフィン愛だけなら千葉や宮崎へ移住する方がベターでしょう。私はサーフィンも含めて小田原から三浦の先まで続く相模湾沿いに漂う文化なども含めて湘南愛に溢れています。

だからこそ湘南移住は本当に心からいつも願っていました。

今はリビングから目の前に海が広がり、左手には第2の人生がスタートした研修と言っても過言ではない江ノ島が見えています。

※左手に江ノ島と片瀬西浜海岸、正面に片瀬西浜海岸、右手に鵠沼海岸と富士山が見えます。

目の前にいつも多くのサーファーを目にしながら波をチェックしています。

そして本来はあまり車に興味は無いですが、あの日出会ったサーファー社長が乗っていたアウディのステーションワゴン(A6アバントクワトロスポーツ)という車で仕事やサーフィンに行っています。

※僕の愛車です。自宅マンション内にある洗車スペースにて

この環境が当たり前にならないよう、毎日、江ノ島を見てはあの研修で砂浜に顔を押しつけられながらサーファーを見ていた光景を思い出すようにしています。

湘南移住をして波乗り社長が乗っていたアウディに乗り仕事やサーフィンをするというこんなに素晴らしい世界に到達できる事を20年以上前の佐川急便で江ノ島研修を受けていた自分には想像もつきません。

ある種の奇跡が起こったと、それまでの人生もほとんど奇跡の連続だったんじゃないかと。

運が良かったとしか言いようのない出来事も多くありましたが、ただ1つサーフィンを中心におくライフスタイルや湘南へ戻る事を諦めなかった事だけは事実です。

またちょっと具体的な事を言えば2006年10月に起業してから色々な問題も起きましたが、振り返ると起業してビジネスで救われたことはwebマーケティングに精通していたからだと言い切れます。

MBA留学の2年目に専攻した科目がマーケティング戦略です。

当時は日本で考えられないほど先を進んでいたwebマーケティングにもアメリカで目の当たりにしてきました。

ビジネスで結果を出すためには様々な要素が必要になります。本質的な戦略も含めてそれを市場へ落とし込むマーケティング。

ネットの普及で我々はその方程式を試すチャンスが大きく広がりました。

コンサルティングで成果を出せているのもwebマーケティングがベースです。
自社ビジネスで成果を出せているのもwebマーケティングがベースです。

今、湘南に戻りその力を湘南エリアで事業を行う小さな会社や個人事業に使うことができ大好きな湘南エリアがもっと元気になるならこれほど嬉しいことはありません。

追記

ミスターチルドレンの「くるみ」という歌があります。

来る未来から「来未(くるみ)」が今の自分を見たらどう答えるか? 未来の反対である「来未(くるみ)=過去」の自分に今の自分は何て答えるか?

などのメッセージが込められています。

「来未=来る未来」が今のあなたに何て声をかけるでしょうか?
「来未=過去」の自分に何て声をかけるでしょうか?

「あの時に一歩踏み出してくれてありがとう」と過去と未来の自分に言える・言われるでしょうか?

このミュージックビデオに出てくるおじさん達は日々の生活を抱えながらもまた音楽に向けて動きます。

年齢やお金、時間様々な制限はあります。

しかしそれを言い訳にしてたらいつまでも実現はできません。
もしこうしてこのプロフィールを通してあなたも何か感じたらどんな言い訳も直ぐに止めてビジネスの成果に繋がる行動をしてみて下さい。

そしてベタな言い方ですが「神様は乗り越えられない試練」を与えません。
今、どれだけ苦しくてもそれは必ず超えられる試練だと自分を信じて下さい。
これが湘南移住まで数えられないぐらいの試練を経験して分かった本質です。

最後に大好きな言葉をあなたへ・・・

「この道を行けばどうなるものか危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。 踏み出せばその一足が道となる。 迷わず行けよ、行けば分かるさ! ダァ~ by アントニオ猪木」

ここまでお読みいただきありがとうございました!

Where there is a will, there is a way!
Be all you can be!

 

湘南ビジネスコーチ(株)代表取締役 山本総

<資格・所属>

波乗り経営コンサル&ビジネスサーフコーチ
湘南ビジネスコーチ株式会社代表取締役
ソルサーフ代表
SBCグローバル(GLJ GORUP)ファウンダー
Creighton University Graduate School卒業(MBA取得)
米国NLP協会認定NLPマスタープラクティショナー
経済産業省後援ドリームゲート認定講師(起業支援)

<出版著書>

「レバレッジ集客法」

「100円ノートで夢の扉を開けなさい」

「サーフィンライフのススメ」

<主なメディア>

■ 湘南ソルサーフ
https://solsurf.fun/

■ ドリームゲートページ
https://profile.dreamgate.gr.jp/consul/pro/soyamamoto?advisor_field_id=

■ ツイッター
https://twitter.com/soyamamoto

■ フェイスブック
https://www.facebook.com/soyamamoto

■ インスタグラム
https://www.instagram.com/soyamamoto/

■ ユーチューブ(湘南ライフハック〜Slow&Easy〜)
https://www.youtube.com/channel/UCsa71YkEB3EAzIKCHY2iY9g/

■ Stand.fm(湘南ライフハック〜Slow&Easy〜)
https://stand.fm/channels/5f8cc36937dc4cc7e1c5d2b8

■ note(湘南ライフハック〜Slow&Easy)
https://note.com/shonan1173

=個人ミッション=

自らの経験(インプット)を通して夢や目標を持つ素晴らしさとそれを行動で達成する喜びを特に人生のレールから外れてしまったと感じる人達に届ける!(アウトプット)

Mission Vison Passion Action!

=名前セラピーからの使命(by 山下弘司著)=

「そう」の「う」は使命という花を咲かせる土と同じ土台でここを疎かにすると使命は果たされない。

「う」には「海」というコアを持つ。「海」は清濁併せ呑んで新しい生命を生み出す場所。あらゆることを受け入れて浄化し、良いものを外に出す働きを持つ。インプットしたら必ずアウトプットすることを人に教える役割がある。

人の話を聞くときに「うんうん」と頷きながら素直に聞くことで相手の中から良いものを引き出す。


集客の学びを止めた瞬間、事業運営も止まる

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